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研精会について

事績

 

大正14年、富山県中新川郡北加積村野町(現富山県滑川市野町)に生まれる。

昭和23年、金沢大学医学部を卒業後、同大学精神神経科に入局。昭和30年に同大学医学部精神神経科助教授となる。
昭和32年に同大学医学部を辞し、上京する。同年5月、調布市に「山田病院(精神科・内科)」を開設する。
昭和40年、精神科病院として「稲城台病院(稲城市)」を開設する。
カナダ・ナイアガラ市立病院リハビリテーション科の見聞を生かし、昭和44年、神奈川県初の脳卒中リハビリ施設である「箱根仙石原温泉病院(神奈川県箱根町、現箱根リハビリテーション病院)」を開設する。当時、首都圏にリハビリ施設は少なく、同院の開設は、全国の福祉・医療関係者の注目するところとなった。

昭和47年、国内初の精神障害者授産施設である「創造農園(調布市)」及びその出版部門「精神医学古典刊行会(調布市)(現創造出版、渋谷区)」を開設する。同施設は、自治体発注の印刷物や医学書を中心に受注する精神障害者のリハビリ施設で、社会で自立するための技術と環境順応性の習得とを目的に運営されている。
昭和47年、調布市教育委員会委員長に就任し、以後六期にわたり務める。「教育と医療をないがしろにして栄えた国家、民族はない」との哲学の下、今もなお、子育て、教育への信念の実現に努力している。

昭和49年、調布市医師会の会長に就任する。夜間や休日の急病対応として、夜間診療所や休日当番医制度を創設し、医師が交代で診療する体制を整えた。
平成2年、東京都第一号の介護老人保健施設「ヒルトップロマン(稲城市)」を開設する。
福祉先進国デンマークの老人福祉施設の視察の成果として、介護保険法施行日の平成12年4月1日に国内第一号となる介護付有料老人ホーム「デンマークINN小田原(神奈川県小田原市)」を開設する。同年、視察先であったデンマーク・コペンハーゲンのナーシングホームスタッフが来日し、「本家以上」との称賛を受ける。
続いて、平成14年に「デンマークINN深大寺(調布市)」、平成16年に「デンマークINN府中(府中市)」、平成20年に「デンマークINN調布(調布市)」を開設する。
また、平成15年には、幼児と高齢者とが交流できる保育園併設の介護老人保健施設「デンマークイン新宿(新宿区)」を開設する。
その他、都内に、「東京南看護専門学校(稲城市)」の開校や、精神障害者地域生活支援センター「希望ヶ丘(調布市)」などを開設するほか、氏の出身地である富山県滑川市にも、富山県第1号の介護老人保健施設「なごみ苑」を開設し、「富山医療福祉専門学校」を開校する。
氏は、昭和32年の上京以来、55年にわたり東京都の地域医療に尽力し、中でも様々な偏見により適切な治療やリハビリが受けにくい状況にあった精神障害者の授産施設の国内初の創設や、高齢化社会への備えとして東京都で最初の介護老人保健施設を開設し、地域医療に大きく貢献されている。こうした画期的な取り組みは、世界各地の先進施設への積極的な視察と、進取の気性に富んだ氏の精神によるところが大きいといえる。
また、永年居住する東京都のみならず、氏の基礎的な思想や知識を育んだ出身地である富山県滑川市への恩義に報いることも忘れない「医は仁術」という懐の深さは、広く都民が敬愛し、誇りとするところである。

略歴

1925年 富山県中新川郡北加積村野町(現富山県滑川市野町)に生まれる
1948年 金沢大学医学部卒業
1955年 金沢大学医学部精神神経科助教授に就任
1957年 「山田病院(調布市)」開設
1965年 「稲城台病院(稲城市)」開設
1969年 「箱根仙石原温泉病院(神奈川県箱根町、現箱根リハビリテーション病院)」開設
1972年 調布市教育委員会委員長に就任(連続・六期)
1972年 国内初の精神障害者授産施設「創造農園(調布市)」及び「精神医学古典刊行会(調布市)(現創造出版、渋谷区〕」開設
(現社会福祉法人新樹会傘下事業所)
1974年 調布市医師会会長に就任
1974年 調布市医師会准看護学院長に就任
1989年 富山県第一号の介護老人保健施設「なごみ苑(富山県滑川市)」開設
1989年 神奈川県第一号の介護老人保健施設「サンライズ箱根(神奈川県箱根町)」開設
1990年 東京都第一号の介護老人保健施設「ヒルトップロマン(稲城市)」開設
1992年 「東京南看護専門学校(稲城市)」開校
1996年 「富山医療福祉専門学校(富山県滑川市)」開校
1996年 全国老人保健施設協会東京都支部長及び同協会理事に就任
1998年 精神障害者地域生活支援センター「希望ケ丘(調布市)」開設
2000年 国内初の介護付有料老人ホーム「デンマークINN小田原(神奈川県小田原市)」開設
2000年 精神障害者援護寮「粋交舎(調布市)」開設
2000年 生活支援ハウス「なじみ(富山県滑川市)」開設
2002年 介護付有料老人ホーム「デンマークINN深大寺(調布市)」開設
2003年 介護老人保健施設「デンマークイン新宿(新宿区)」開設
2004年 介護付有料老人ホーム「デンマークINN府中(府中市)」開設
2005年 稲城台病院サテライト「たま憩いクリニック(多摩市)」開設
2008年 介護付有料老人ホーム「デンマークINN調布(調布市)」開設
2009年 滑川市名誉市民
2012年 東京都名誉都民及び調布市名誉市民
2015年 医療法人社団研精会 名誉会長就任
2019年 2019年1月 逝去

小伝

※平成24年時点のものです

87歳、いまなお現役

今年で87歳になる山田禎一さんは、現役の精神科医として火曜と金曜の週二回、調布市東つつじヶ丘の山田病院で外来の診察をこなす。午前9時きっかりに外来に出て、12時までの3時間。平均で一日20人ほどの患者を診る。
精神科医の仕事は、患者の話を聴くことから始まる。一度や二度の診察では、なかなか胸の内を明かしてくれない人もいるそうだが、ひとたび信頼を得ると、付き合いが長くなることも珍しくない。
「なかには私が24歳で医師になってから、ずっと付き合いのある患者さんもいます」
ざっと計算して60年以上。それほど長い間、医師と患者という立場で信頼関係が続いている、という事実にまず驚かされる。
「私のほうは60年間、あまり進歩はありませんけどね」と茶目っ気たっぷりに謙遜するが、もちろんそんなわけはない。たしかに精神の領域は現代の医療技術でもわからないことが多いが、それだけに現場の医師として長年培われた人間力が、大きく物を言うはずだ。
「いや、話を聴いていくなかで問題があると思ったことについて、ちょこちょこっとアドバイスをするだけですよ。基本的にはみなさん、自分の中に抱えている苦しいものを、誰かに話したくて仕方がないんだなと思います」
その屈託のない表情と誠実な口ぶりに、ひょっとすると患者のほうから自然と胸襟を開いていくのではないだろうか。そう思わせる魅力が、山田さんにはある。

小学校の担任先生は母・信子さん

山田さんは大正14年、富山県中新川郡北加積村野町(現・滑川市野町)に五人兄弟の長男として生まれた。父・喜一さん、母・信子さんは、ともに小学校の教員だったこともあり、教育にはことのほか熱心だったという。
信子さんの勤務先は、学区内の北加積小学校だった。一学年一クラスの小さな学校で、三人の女性教師が順番に一年生を担当していたが、やがてちょっとした問題が起きた。このままいくと、山田さんが小学校に入学する年は、ちょうど信子さんが担任になる。そのまま二年間は担任が変わらないため、信子さんは校長の目の前で「私にはできません」と泣いたが、逆に「自分の子の教育ができなくて、他人様の子が教えられますか」と説得されたそうだ。
そんな母の心配をよそに、山田さんは伸び伸びと育ち、一年生、二年生と級長を務める。そして三年生に進級する前、信子さんは息子を目の前に座らせてこう言った。
「もし一番になれなかったら、いままで自分の子をひいきしていたと、私は一生笑いものになる」
子ども心に「その道りだ」「母に恥はかかせられない」と思った山田さんは、見事に一番を獲得する。
小学校を卒業する昭和13年には、旧制富山高等学校尋常科の入学試験を受けた。
当時、四年間の尋常科(現在の中学校に相当)を併設する七年制の高校は数えるほどしかなく、富山高校尋常科は地元以外からも入学希望者が殺到する超難関として知られていた。尋常科の試験さえ通ればエスカレーター式で高等科へ進めるだけでなく、その後は帝大への道もほぼ約束されていたため、その人気ぶりも当然と言える。事実、北加積小学校では「村の小さな学校から合格できるはずがない」と、誰一人として入試を受けなかったくらいだ。
それだけに、山田さんが合格通知を手にすると、学校や役場の人から盛大な祝福を受け、村中がたいへんな騒ぎとなった。

青春を謳歌した富山高校時代

富山高校は、ガツガツと貪欲に勉強するという雰囲気ではなく、どちらかというと学校生活を楽しむ人が多かった。山田さん自身も山岳スキー部に入り、夏山や冬山の合宿に参加したり、夢中で小説を読んだりして大半の時間を過ごす。
また、入学後は自宅を離れ、「青冥寮]という寄宿舎から学校へ通った。そこで友と語り合い、哲学を論じ、時には恋の話に花を咲かせ、部活動で汗を流すなかで学んだのは「自治の精神」だ。何事も親や教師に頼らず、自分の頭で考え、自らの意志で決める。そしてひとたび自分で決めたことは、責任をもって実行する。寮生活で培ったこの精神は、その後も人生の宝となった。
こうして多感な時期をともに過ごした仲間との絆は強く、卒業後じつに70年が過ぎようとするいまでも年に一回、銀座でクラス会を催し、旧交を温めている。

金沢大学医学部へ進学

昭和19年9月、戦局悪化のため半年繰り上げで高等科を卒業し、東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科へ進学を果たす。将来は内務省の官僚を目指していた山田さんにとって、これ以上ない進路だったが、入学して間もなく富山東部四十八部隊への召集令状が届いた。ところが、徴兵検査のレントゲン写真に影が写ったことにより、兵役に“待った”がかかる。胸のレントゲン写真を前に「これは肺結核だ」「いや、そうじやない」と、医師の間で診断が分かれたのだ。
結局、医師として実績のある富山日赤病院内科部長の「肺結核」という診断が採用された。そして「文科系の大学にいると、いずれ陸軍に引っ張られるだろう。戦地で血を吐いて死にたくなかったら、兵役延期が認められる医学系の大学へ行ったほうがいい」という内科部長のアドバイスにしたがって東大を中退し、金沢大学医学部の二次募集にギリギリのところで滑り込んだ。
一連のドタバタ劇があったとはいえ、文系から理系へ、しかも法学部から医学部への転向は、まさに想定外だった。そのため解剖学や生化学になじめず、とりわけ死体解剖は生理的に受けつけなかった。二年間はこうして悶々とした日々を送るが、試験だけは通過し続け、三年生に進級すると臨床医学の講義や診療実習が中心となり、ようやく医学に興味が湧いてきた。
「でもね、私は生まれつき手先が不器用だったんです」という言葉通り、眼底検査、耳鼻咽喉検査、産婦人科の実習などは、仲間の協力を得ながらなんとかクリアしていたそうだ。
しかし、四年生に進級後、卒業を間近に控えた(当時、金沢大学医学部の修業年限は四年)昭和23年6月5日、いまでも忘れられない出来事が起きた。
最後の耳鼻科学士試験に合格すれば、卒業できる。その後は、すぐに実家に帰って結婚式を挙げることが決まっていた。相手は空襲で東京の女子大に進学できなかったという現在の妻・郁子さん。知り合ったのは、山田さんが二年生だった頃だ。ちょうど勉学に意欲が持てなかった時期と重なる。
「要は、二人ともふてくされていたんですよ」と山田さんは笑うが、ともかくそんな二人が好き合い、卒業と同時に結婚する約束を取り交わしていた。
しかし、試験本番の実技で、どう頑張っても耳の奥にあるはずの鼓膜が見えない。結果は、不合格。 山田さんは、すぐに松田龍一教授のもとへ駆け込み、事情を話した。
「ここで落第したら、私の人生は終わりです」
土下座をしながら泣いて頼むと、教授も哀れんでくれたのだろうか、ギリギリの六十点をもらった。こうして無事に卒業し、結婚式を挙げることができた。いまでも山田さんは、松田教授のことを「人生の恩人」と思っているそうだ。

臨床講義を聴いて精神科へ進む

ここで少し時計の針を戻そう。
卒業後、どの科に進めばよいかと悩んでいた山田さんにとって、昭和22年1月に金沢で起きた「璽光尊事件」が、運命の矛先を大きく変える。
「璽光尊事件」とは、戦時中に設立された新興宗教「璽宇」の教祖と名乗る璽光尊(本名・長岡良子)が逮捕された事件だ。彼女は「天変地異が起こる」と託宣したり、金沢を訪れたマッカーサー元帥に直訴するなど、数々の奇異な言動で注目を集めていたが、警察は「人心の不安をあおっている」「統制物資である米を大量に所持している」などを理由に挙げて、逮捕に踏み切った。
璽光尊は精神鑑定の結果、「誇大妄想性痴呆症」と診断されてまもなく釈放されたが、この女性教祖の鑑定を担当したのが、金沢大学医学部精神神経科の秋元波留夫教授だった。
後日、秋元教授は、自身の臨床講義に教祖本人を連れてきた。璽光尊が「神のお告げがあった」と言うと、秋元教授は「いまあなたが言ったようなことを妄想と呼ぶのだ」と返す。こうして目の前で緊迫したやりとりが繰り広げられ、学生たちは一様に固唾を飲んで見守った。その精神医学的解説に強く興味を引かれた山田さんは、「私が選ぶべき道はこれだ」と心に決める。
ただ、当時は精神科の病院が少なかったこともあり、「将来、生活ができるのか」と、父の猛反対にあう。一方、母と当時の婚約者・郁子さんは「自分のやりたい道に進めばいい」と賛成してくれたこともあり、山田さんは自身の意志を貫いて精神神経科へ入局した。

医局に別れを告げて上京

郁子さんとの結婚式の三日後、山田さんは「精神科医として血清学手法の研究を導入する」という壮大な計画のもと、東京大学血清学教室に内地留学する。その後、インターン時代から籍を置いていた金沢大学医学部精神神経科に戻り、医師国家試験に合格。そして秋元教授の助手となり、診療や研究などに追われていたが、昭和29年12月、突然激しい頭痛に襲われた。
診断の結果は「結核性脳膜炎」。当時の医療技術では、ほとんど助かる見込みはなかった。絶望の淵に立たされた山田さんは、入院していた大学病院のベッドで毎日泣きながら過ごす。
翌年の昭和30年春、二年間の西ドイツ留学が決まった秋元教授に「留守部隊長の助教授を任せる」と言われた。脳膜炎は奇跡的に快方に向かっていたが、それでも入院中の身にそんな大役が務まるわけがない。そう考えた山田さんは申し出を固辞したが、秋元教授も譲らない。結局、山田さんが折れる形で退院後に助教授へ就任した。
医局を統率する立場となり、入院患者の診察、外来患者の診察、大学の講義や診療実習、医長会議、自身の研究と、休む間もなく働いた。さらに並行して、教授の留学費用や生活費を工面するため、先輩医師のもとを駆け回っていた。
この二年間で心身ともに疲れ果てた山田さんは、秋元教授の帰国と同時に助教授を辞任し、医局と決別する。そして同じ精神神経科生理化学の研究仲間だった都立松沢病院医長の臺弘さんの力添えを得て開業することを決断し、家族とともに上京した。

調布市内に「山田病院」を開設

昭和25年に精神衛生法が成立し、入院中心の精神科医療体制が確立。同時に、精神障害者の人権を尊重しようという声が上がってはいたが、精神疾患に対して差別の目や発言がまかり通っていた当時、周辺住民の理解を得るのは至難の業だった。そのため多くの精神科病院は人里離れた場所にあったが、開業にあたって山田さんはあえて住宅街、それも駅に近い場所を選ぶ。
「人は人混みのなかで、人と人が心を通い合わせて生きていかなくては幸せになれない」というのが山田さんの信念だった。
昭和32年5月25日、土地の斡旋や病棟の建設など、すべてを臺医長に委ね、武蔵野の面影が色濃く残る調布市内に「山田病院」を開設。約500平方メートルの敷地に、精神科・内科を併設する27床の小さな病院だったが、都立松沢病院や東京大学の支援を受けて多くの患者が訪れた。
ちなみに、山田病院を開設した年に、お世話になった臺医長が群馬大の教授に就任。その一年後、秋元教授が東京大学精神科教授へ赴任した。上京前にいったんは決別した秋元教授だったが、再会後は教授が平成19年4月に100歳という長寿で亡くなるまで、親しい付き合いが続いた。

箱根にリハビリ専門病院を開設

昭和36年9月、当時富山県滑川市長を務めていた八尾菊次郎氏が、全国市長会の欧米視察団として赴いたカナダのナイアガラで倒れた、という一報が届く。原因は脳出血。なんとか一命はとりとめたものの、右半身まひと失語症が残り、現地の市立病院に入院した。
この八尾菊次郎という人物、じつは妻・郁子さんの祖父だ。そこで滑川市は現地へ派遣する嘱託医として、山田さんに白羽の矢を立てた。
急きょ、カナダのオンタリオ州へ飛んだ山田さんだったが、そこでリハビリ医学先進国の姿を目の当たりにする。それまで一度もリハビリテーションの現場を見たことがなかった山田さんにとって、それはまさに衝撃的な体験だった。脳出血後、四、五日経った患者とともに、理学療法士や作業療法士が懸命にリハビリに励む光景を見て、感動に打ち震えた。また、たとえ脳出血で倒れてまひが残ったとしても、すぐにリハビリを始めれば回復する可能性が高いことも、このとき初めて知った。
当時、日本の脳出血患者は、推定80万人。対して、リハビリ施設は4,000床と数が足りず、東京や横浜など首都圏にも数少なかった。リハビリテーションは山田さんにとって専門外の分野だったが、帰りの飛行機の中で「日本にも必ず専門病院を作る」と、固く心に誓う。
それから八年後となる昭和44年、神奈川県箱根町仙石原に、リハビリに効果がある硫酸カルシウムを主成分とする石こう泉を活用した長期療養施設「箱根仙石原温泉病院(現・箱根リハビリテーション病院)」を開設し、山田さんの思いは結実した。

授産施設「創造農園」を立ち上げる

統合失調症を患った人が再発を繰り返すのは、退院後の生活環境や経済環境などが恵まれていないことに原因がある。そこでなにか社会の役に立つ技術を身につけてもらい、収入を得ることで生活の質を向上してもらえばいい。そう考えた山田さんは、働く意欲のある外来通院中の患者のために、授産施設(おもに身体や精神に障害を持つために就業が困難な人に対し、働く場や技能取得を提供する施設)を作ることに決めた。
次に、どんな技能を身につける施設にするか、頭をひねった。もともと統合失調症の患者は、大学に進学する人もいるくらいなので、知能にはまったく問題ない人が多い。そこで知性を生かせる専門職が適しているだろう、という発想で「印刷業」を選ぶ。
こうして昭和47年9月、調布市に国内初となる精神障害者授産施設「創造農園」を開設、カナダのバンクーバーで開かれた世界精神衛生学会で取り組みを発表した。
現在、設立からちょうど40年が経過したが、毎日50人前後の患者が印刷科、製本科、電算科、製版カメラ科、出版部などの各部署に分かれ、専門指導員のもとで技術を習得するとともに、社会適応能力を養っている。また、平成10年1月に精神障害者地域生活支援センター「希望ケ丘」、平成12年4月に精神障害者援護寮「粋交舎」を、それぞれ「創造農園」の敷地に隣接してオープン。精神障害者の社会復帰を目指す総合施設として、地域から大きな期待が寄せられている。

市の医療体制の充実を図る

昭和39年、北多摩医師会より分離・独立して調布市医師会が設立。同時に、副会長に選任された山田さんは、十年後の昭和49年、会長に推挙される。
当時、調布市は全国でもトップクラスの人口増加率を誇っていた。「伸び盛りの新興住宅都市」と言えば聞こえはいいが、裏を返せば地縁・血縁など、人々の関係がどんどん希薄になっていったことを意味する。実際に調布市内では、長年にわたってかかりつけの医師がいる家庭は、ほとんどなかったと言っていい。そのため、子どもやお年寄りが病気になったり、ケガをしたりすると、救急車で知らない病院に運ばれ、知らない医師のもとで治療を受けなければならない。こうした状況をつぶさに見てきた山田さんは、医師会設立当初から、さまざまな改革に取り組んだ。
手始めに、大きな病院の診療時間外に救急患者を診るため「夜間診療所」を作り、医師会の会員が交代で詰めることにした。さらに日曜・祝日など、かかりつけの病院が休みの場合でも診療が受けられるようにと「休日当番医制度」を整える。
また、当時は看護師が不足していたため、小さな診療所では医師の配偶者が受付や会計、検査、調剤などを行うのが通例であったが、これではあまりにも負担が大きい。そこで、どの診療所でも准看護師が一名は勤務できるよう、昭和45年に医師会付属の准看護学院を開設した。
さらに、児童や生徒の増加にともない、毎年のように新設校が誕生していた調布市では、非行に走る子どもが急増し、社会問題になっていた。各学校に配属された校医だけでは、すでに手に負えない。そこで山田さんは市長に掛け合い、「各小中学校に一人ずつ精神科の専門校医を配属してほしい」と要望を出した。実現までには多少時間がかかったが、これは全国でも初となる画期的な試みだった。

「ごつい教育委員長」と評判を呼ぶ

38歳の若さで調布市医師会の副会長に就任した山田さんは、昭和47年に調布市教育委員会委員長に選任され、以降は任期一年のところを六期続けて務めた。
教育と言えば、両親がともに小学校教諭だっただけではなく、祖母は高等小学校(当時は尋常小学校四年、高等小学校四年の合計八年制)に、女性としてただ一人在学していた。さらに祖母の父は、山田さんの母校でもある北加積小学校の初代校長を務めていた。このように、教育に緑の深い環境で育ったこともあり、山田さんは「教育と医療をないがしろにして栄えた国家、民族はない」という確固たる信念を持っていた。
教育委員会委員長を務めていた当時、市長が「健康住宅都市」を宣言したこともあり、調布市は人口増加率が全国で一位という状況だった。教育委員会委員長に就任した年は1万9,278人だった小中学生は六期の間に2万3,043人に増え、小学校を四校、中学校を三校新設した。その間、学校の敷地購入、校舎の建設、プレハブ校舎の増設などによって教育予算は膨れ上がり、調布市の予算の三割~四割近くを占めるようになる。
当然のように、市のほかの部や市議会、日本教職員組合の調布市支部によってやり玉にあげられ、次第に風当たりが強くなっていった。教育委員長室の窓に、抗議のビラがびっしりと貼られて部屋が真っ暗になったこともある。
それでも山田さんは一歩も引かない。「少年・少女時代の教育環境は、人格形成に決定的な影響を与える」と信じていたからだ。誰が言い始めたか定かではないが、いつしか山田さんは「ごつい委員長」と呼ばれるようになった。
ちなみに昭和56年3月、山田さんは独自の教育観をつづった『親子の間のとり方』という本を上梓している。そこには戦前生まれの人にありがちな凝り固まった精神論や、堅苦しい教育論は一切登場しない。子どもたちの声なき心の叫びに、親がもっと耳を傾けるべきだという思いがつづられている。たとえば「叱る前につばを飲み込もう」「『どうしてそう思うの』と聞いてみよう」「赤ん坊のときの話をしてあげよう」など、子どもと信頼関係を築くプロセスを精神科医の立場からわかりやすく説いた本書は多くの人々に受け入れられ、当時のベストセラーとなった。

衆議院選挙に出馬するも落選

『親子の間のとり方』が売れて世間の認知度が上がり、山田さんは本業以外の仕事が激増した。昭和57年にはラジオ関東で親子問題を担当、テレビ東京の司会者にも抜擢される。また、日航羽田沖墜落事故を起こした機長の精神分析をするなど、多くのメディアからオファーを受けた。
ちょうどそんな頃、山田さんは昭和58年の衆議院総選挙に自由民主党公認候補として出馬する。その背景には、元首相の竹下登氏との個人的な付き合いがあった。
竹下氏の中学時代の親友が、山田さんの金沢大学時代の親友だったことが縁で交流が始まり、やがて元首相の田中角栄氏、元副総理の金丸信氏という大物政治家とも知り合った。そして彼らと親交を深めていくうちに、「田中派は厚生省が弱い。山田くんは精神科で多少暇もあるだろうから、ひとつ立候補してみてはどうか?」という冗談のような話が持ち上がる。それがまたたく間にエスカレートし、ついに現実に至ったのだという。
ところが、同じ東京11区には、15人もの候補者がいた。その上、折しもロッキード事件のまっただ中だったこともあり、「ミニ角栄」と呼ばれて徹底的にたたかれた。
結果は、惨敗。
それでも山田さんは、「行政や政治というのはこうして動くものかとわかっただけでも、私にとっては貴重な経験でした」と、懐かしそうに当時を振り返ってくれた。

故郷に錦を飾る数々の事業

昭和32年に上京して以来、首都圏を中心に活動を展開していた山田さんだが、ふるさとへの思いは人一倍強く、「東京多摩富山県人会」などの活動も長く務めていた。そんな郷土愛は、昭和から平成へと時代が変わる頃、徐々に形となって表れていく。
平成元年4月、ふるさとの滑川市野町に、富山県で初となる介護老人保健施設「なごみ苑」を開設。後に認知症専門棟も増設した。施設ではリハビリや入浴のためだけではなく、仲間同士で語らう〝場〟を提供したいという思いから、送迎バスを何台も走らせ、利用者の自宅と施設を結んだ。
平成8年には滑川市柳原に、理学療法士や作業療法士を養成する「富山医療福祉専門学校」を開校。財政難にあえいでいた富山県から要請を受け、資金を借りる形で整備された。こちらは後に看護学科と介護福祉学科が追加され、次世代の福祉を担う人材を輩出している。
また、平成9年には滑川市立柳原保育園の民営化にともなって、「やなぎはら保育園」の経営を引き継いだ。
「教育と医療は、国家の命運をかけるべき事業」という信念は、こうしてふるさとにも息づいている。そして平成21年11月1日、郷土に対する多大な功績が讃えられ、滑川市名誉市民を受賞。滑川市にとっては、じつに46年ぶり二人目の授与となった。

「人間中心社会」のデンマークに学ぶ

平成12年4月1日、介護に必要な費用を国民が負担し合うという、世界でも例のない介護保険制度がスタートした。その直前、山田さんが理事長を務める「ヒルトップロマン」という老健施設で不幸な出来事が起きてしまう。
東京都第一号の介護老人保健施設として平成2年、稲城市に開業した「ヒルトップロマン」では、実際には長期にわたって滞在できるのだが、どういうわけか要介護と判断されたある認知症の高齢者が「すぐに退所しなければならない」と思い込んでしまったという。帰る場所があるとすれば、長男夫婦の家しかない。しかし、息子の嫁とどうしても折り合いが悪かったらしく、「嫌だ、帰りたくない」と言って泣いていた。そしてある日突然、五階から飛び降りて自殺してしまったのだ。
山田さんは大きなショックを受け、「家に帰れない高齢者をこんな形で失ってしまうのなら、何のための介護保険制度なのか」と苦しみ、義憤にかられた。そして、最終的に、「利用者のみなさんに多少の負担をお願いしてでも、介護付有料老人ホームを立ち上げるしかない」と、心に決める。
お手本にしたのは、「本人の意思尊重」「現存能力の活用」「生活の持続性」という三原則を実施している世界一の老人福祉国家、デンマークだ。かの国は、かつて敗戦によって領土を削られ、国に残された資源は540万人の国民だけとなり、そこから人間中心の社会を作ったという歴史がある。
そこで山田さんは、平成11年9月に首都コペンハーゲンの「ナーシングホーム」という介護付有料老人ホームを視察し、構想を重ねた。そして行き着いた結論が、「安い・近い・安心」という三つの条件を満たす施設を造ることだった。
第一の「安い」は、いくら立派な施設でも料金が高くては意味がない、ということ。
第二の「近い」は、駅の近くに施設があること。自宅と施設の往復が不便では、三回の面会が二回に減り、やがて一回になるなど、どうしても家族の足が遠のき、結びつきが薄れてしまう。反対に、駅の近くにあれば頻繁に面会に来られるし、お年寄りの調子がよいときは気軽に外泊もできる。つまり、家族の絆をなくさない施設にしたい、と山田さんは考えた。
第三の「安心」は、常に不測の事態を考慮して二十四時間体制の介護を実現し、利用者の家族に「あの施設にいるから大丈夫だ」と思ってもらえるようにする、というものだ。

「デンマークINN」を続々と開設

平成12年4月1日、ちょうど介護保険法の施行日に、日本初の介護付有料老人ホーム「デンマークINN小田原」がオープンした。「デンマークの高齢福祉三原則をもとに、デンマーク風の看護・介護の実践を目標とする小さなホテル」という意味を、施設の名称に込めた。
各部屋の窓一面に深紅のゼラニウムを置き、特製の電動ベッドやミニキッチン、外線直通の電話を設置するなど、アメニティーを充実。外装や内装は、木を多用して北欧風に仕上げた。施設の中にはグラウンドピアノがあり、毎月コンサートを開くことにした。ちなみに立地を小田原に決めたのは、「箱根リハビリテーション病院」から近く、温泉療法とリハビリ施設を利用できるというメリットがあったからだ。
この年、デンマークの「ナーシングホーム」のスタッフが来日。早速施設に案内すると、スタッフから「私たち本家以上のホスピタリティーだ」と賞賛を受けた。
その後、平成14年に「デンマークINN深大寺」、平成15年に保育園を併設した「デンマークイン新宿」、平成16年に「デンマークINN府中」、そして平成20年に「デンマークINN調布」と、グループ施設を次々に開設する。いずれの施設もオープンと同時に評判を呼び、たちまち満床になった。

未知なるものへの好奇心

数々の医療関連施設を経営し、地域の医療・福祉に貢献してきた山田さんだが、その軸足は常に精神科医に置いてきた。現在、山田さんは外来診療だけでなく、平日は毎日休まず、ご自身が理事長を務める各地の病院や老健施設を飛び回り、精神科医として患者や利用者、家族の言葉に耳を傾ける。

ちなみに一週間のスケジュールは、おおむね次の通りだ。

月曜 箱根リハビリテーション病院(足柄下郡箱根町)
デンマークINN小田原(小田原市)
火曜 山田病院(調布市)
水曜 デンマークINN深大寺(調布市)
デンマークINN調布(調布市)
木曜 稲デンマークINN府中(府中市)
金曜 山田病院(調布市)
稲城台病院(稲城市)
ヒルトップロマン(稲城市)

※上記は平成24年時点のものです。

山田禎一さん、87歳。仕事に対するこれほどのエネルギーは、いったいどこから湧いてくるのだろうか。
「ご承知の通り、精神疾患というのは、いまだに原因がよくわかっていません。私たちができるのは対症療法だけで、根本的な治療はできないわけです。だからこそ、まだ解明されていないもの、未知なるものに対する興味に、私は突き動かされているのかもしれません」
感情や意欲は、どうして人によって違うのか。同じ社会で幸せに暮らしている人がいる一方で、それができない人がいるのはなぜか。
「人の心=精神」を追うほどのめり込み、気づいたら60年以上も続けていたというのが、正直な実感だという。他の疾患とは違って病理が見えないだけに、根気よく患者の言葉に耳を傾けるしかない。だからこそ、なんとか救えないだろうか、苦しみから解放してあげられないだろうか、という思いが強くなるそうだ。
「人間の心が解き明かされる日が来るまでは、精神科医の仕事に終わりはありません」と語る山田さんの言葉には、〝生涯現役″を貫く決意がうかがえた。

※以上は山田禎一が名誉都民に推挙された際に発行された「名誉都民小伝(平成25年3月号)」より抜粋しています